2009年7月4日 銅山峰

古いアルピニスト達は,過ぎし日の山行を想い描き,その稜線を見上げた。

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銅山峰
私たち同期と前後数年の部活仲間は,かつて世界一の産出量を誇った別子銅山,いにしえのエルドラドを目指す。
そこには私たちに”ヤマ”を教えてくれた恩人が隠棲する山小屋,「銅山峰ヒュッテ」が在る。
今回の遠征目的は,銅山峰ヒュッテ訪問だ。


栄華を極めた鉱山は,今,無限の静寂と神秘につつまれた産業遺構を森に還そうとしていた・・・





今回は,出戻りハイカーのセンチメンタル・ジャーニーです。

Taku兄とワタシ,関西に在住する同期2名は朝7時に宝塚を出発した。
途中,阿波藍染めで有名な徳島県藍野に立ち寄る。
藍を練り込んだ石鹸を買いたいという,ワタシの我侭なリクエストによるものだ。
山間に入り,ところどころ対面通行の高速徳島道を吉野川に沿って走る。
徳島道の標高最高点は,300m。
蔦監督が率い「やまびこ打線」で全国制覇した池田高校はこのあたり。
県境のトンネルを抜け川之江ICで松山道に合流。
瀬戸内海に沿って山麓を走る松山道は,燧(ひうち)灘から一気に赤石山系へ高度を上げる海と山の景観が素晴らしい。
帰省の度に「(故郷に)帰ってきた」と思わせる大好きな展望だ。


お昼前に同期のリーダー,M隊長宅に到着。
奥様手作りのぶっかけうどんで腹ごしらえを済ませる間,2年後輩の山ちゃんも合流。
今回は,M隊長の提案により30年前の小屋番山行を忠実にトレースすることになっている。
当時の集合場所であった「山根生協」で,これまた2年後輩の松ちゃんが合流し,メンバー5人全員が集まった。
ボッカ品の買い出しを行い,車3台に分乗して山根から国領川沿いを上流へ。


山根 エントツ山
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銅精錬の拠点は設備の近代化と深くなる鉱脈を求め,旧別子より麓の新居浜へ時代と共に海へ下ってきた。
このエントツ山は,かつての銅精錬工場跡。
しかし,精錬の際に大量に発生した硫黄酸化物煙害に配慮しごく短期間の稼働で役目を終え,現在は記念館として地区のシンボルとなっている。
因みに我が故郷新居浜は,日本三大ケンカ祭りとして名高い「太鼓祭り」が秋の大祭として有名。
ここエントツ山の前には,山根グランドと呼ばれる広場があり,上部地区の太鼓台が華やかな”担き比べ”を行う場所だ。
年々煌びやかになる一方で,”平和運行”と呼ばれる取り組みによって,かつては巨大な太鼓台同志をぶつけ合うケンカ祭りは鳴りを潜めているようだが,数年に一度は怪我人が出るケンカに発展しているようだ。
言うと憚られるが,世界一の鉱山を支えた荒くれの末裔には熱い血がDNAとして受け継がれており,新居浜に生まれた男は,太鼓台が急テンポに打ち鳴らす5尺太鼓の音を聞けば瞬く間に「祭り馬鹿」と化し,ほぼ例外なく凶暴化する。
念のために言っておくが,凶悪化ではない。 ケンカと花火は江戸の華・・・ というアレと同じ類だ。
ひとつだけ,私を含め新居浜の男は,単に”太鼓”と呼ぶ,この巨大な屋台を年に一度担ぐ行為を無上のシアワセと感じ,言うまでもなく太鼓祭りは,世界一の祭りと誇りに思っている。

いかん,いかん。 太鼓祭りの話はキリがないのでこの辺りで止めておこう。


鹿森ダム
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国領川水系の足谷川の中流にあるこの鹿森ダムは,典型的なV字谷を堰き止めたFIP多目的ダム。
高校登山部の時代に「ダムから行く」は,当時,路線バス終点であった鹿森ダム横の登山口から登ることを指した。
現在は,全行程の中間地点にある東平(とおなる)が観光開発により整備され,この登山口から登るハイカーは珍しい。
何よりも,ダム下流川に巨大ループ橋が建設されつつある景観の変わりように驚いてしまった。
今回の山行は,同期のセンチメンタル・ジャーニーであるが故,ダムから行く。
但し,ボッカ荷物は別動する後輩二人が東平までクルマで荷揚げをする側面援護作戦。
別働隊とは途中の第三発電所跡の現登山口で合流することを約して旧登山口で分かれた。


さあ,行こう
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この旧登山口は,遠登志(おとし)と呼ばれ,ダム建設前にあったと思われる滝=落としが転じたものと理解している。
このほか,周辺には「魔戸の滝(まどのたき)」と呼ばれる瀑布もあるが,これも語源は,切り立った断崖・ピナクルを表す「窓」が転じたものだろう。
ここからの全行程は5km,CT3時間と道標に刻まれている。
現役時代は,2.5時間くらいで歩いたような記憶もあるのだが・・・


ダメ!
早々にバテるワタクシ,EO。
当時我々の登山部顧問にしてBC教師だったS先生の表現を借りると,「カーンと詰める(等高線の目が詰んだ地形)」つづら折りの急坂で,いきなりバテてしまった。 非常に情けない・・・ 今回,案内を兼ねて先頭を進む地元同期のM隊長に「追いつくから,先に行っといて」と手を振り,服を脱ぎ,大量の水分を摂取しつつヨタヨタと先行する同期2人の後を追う。


ベンチ跡
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僅かばかりにその痕跡を残すかつての休憩ポイント,通称:ベンチ。
ここはダムからの急登高が終わり,切り立った断崖をトラバースする緩やかな登りに変わるところに設置された展望所。
昔は,ここで一本(休憩)取り,谷向かいの稜線を見ながら息を整えていた。
今日は,息も絶え絶えのオヤジ3人がいたわり合う「命の休憩地点」と化した。
早々にバテてすまぬすまぬと繰り返し,生協で買った水を飲み,噴き出す汗の消費を補う。



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前日までの雨で水量が増した小女郎川沿いに東平・第三を目指す。


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先輩OBに支点確保してもらい,よじ登った無名の一枚岩。
よく見ると,比較的新しい残置ボルトが見える・・・
ここで2㍍ほど墜ち,膝を擦りむいた昔が懐かしい。


ほどなく中間地点,東平の現登山口に到着,開けた視界に飛び込む第三通洞
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振り返ると,鉱山都市の名残を残す石垣積みの道路や煉瓦の建物がかつての繁栄を偲ばせる。
まるで空中庭園に迷い込んだ気分だ。
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先行の後輩2人とは,この第三通洞前で落ち合うことになっていたが,遅れて到着したワタシがM隊長に問うと,「あいつら先に行っとるみたいなかい。 声はするんじゃけど・・・ (大量の荷物が)可愛そうじゃけん,先に行こわい,まあ,ゆっくりおいでんかいの~」 と言い残し,休憩もそこそこに先行。
やはり,リーダーはカッコイイ♪
残されたTaku兄とワタシの関西組は,昔,水浴びをした河原に降り,頭から水を浴びてクールダウン。
ここで水を詰め替え,参った,参った。 ホンマに参ったと,先行組の後を追う。
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柳谷・馬の背分岐
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東平→第三からほどなく登ると銅山峰へのコースは,柳谷川沿いの柳谷コースと,銅山越付近のコルから派生した稜線に出る馬の背コースに分岐する。 名は道を表す・・・と,誰かが言ったかどうか。 全国各地に存在する「馬の背」同様,別子の馬の背も,高低差約200㍍を一気に詰めるハートブレイク・ルートだ。
モチロン私たち出戻りハイカーは,柳谷コースをチョイス。


命の水,A
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柳谷コースは途中何度も沢の徒渉を繰り返す。
現役当時は有り余る体力にモノを言わせ,馬の背コースを行くのが意地であり,矜持でもあった。
よって,我々の殆どがこのコースの思い出が薄く,所々にある水場で休憩を取りながら登高を続けた。
途中,先行したボッカ組にも追いつき,荷物を自分のザックにも詰めて,残り僅かを運ばせていただいた。
この時,最大量を引き受けていた後輩山ちゃんのザックを持ち上げてみたところ,長年の感覚で30kgはあったと思う。
正直に白状するが,今回は完敗を認める。
そして山ちゃんは,バケモンや!



到着~!
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銅鉱石を鉄道輸送した明治の時代,上部鉄道の停車場であった「角石原」に,銅山峰ヒュッテが在る。
銅山峰ヒュッテは,伊藤玉男氏(故人)が昭和38年に開業した個人管理の山小屋。
私たちは,部活動の延長線として,銅山峰ヒュッテの小屋番(先輩OB部員から引き継がれた伝統)を登山部在籍の3年間お手伝いをしてきた。
メンバーはそれぞれの想いを胸に,ここへ還ってきたのである。

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後編へ続く
by eohiuchinada | 2009-07-06 17:37 | ハイキング